2020年09月07日

#840 創業150周年のこと

今月を持ちまして、弊社創業150周年を迎えました!ひとえに皆様からのご愛顧によるものです。誠にありがとうございます。店長です、こんにちわ。大々的に何かをしようにもコロナ禍ではできない男。

さて、正確には「来年」ですが弊社の会計年度としてはこの9月からということになります。明治4年(1871年)創業という事ですが、当時の日本では旧暦を採用していたため明治5年まで西暦年との誤差があり、日本での1872年は厳密に明治5年1月1日〜同年2月8日までの一ヶ月強しかなかったりと色々あったわけですけれども、まぁ創業150年なんだもん!ということで。
明治4年当時、「廃藩置県」がございました。当家の開祖、高橋虎吉氏は伊達藩に仕えた足軽(鉄砲隊)で、廃藩置県により伊達藩よりの給仕も止まることなります。「武士は食わねど高楊枝」と言わんばかりに当時の士農工商からも武士にしがみつき、いつまでも定職に就かない事を指摘され嫌々ながら近所の勧めで花屋を開始したと私の祖父は聞かされていたようです。当時の花屋は墓花屋です。寺の門前で墓参りの花を売っていたのが花屋で、当時日本の文化として生きている人に花をプレゼントする風習はございませんでした。墓花を売って細々と日銭を稼ぐ生活だったとの事です。二代目、高橋正吉氏では転機が訪れます。初代の実直で真面目な墓花売りが寺の住職達に認められたのか、現在の場所、仙台駅東口の廃寺の土地を与えられ、ここで店舗兼家宅を建て生花の販売を開始します。このすぐ後、仙台駅が敷設されることになります(明治20年)。当時の墓花はツゲやヤナギの枝に白い紙を結びつけただけの簡素なものでした。当然キクなどの流通が確立されておらず、自分で山野から採取して加工し販売するのがメインです。もっと派手にするべきだ!と思ったのでしょうか、山形の民芸品に一刀彫りがあり、これを参考にコシアブラの木材を削って花に見立て、食紅で着色した「けずり花」を開発。近所にございます見瑞寺の住職が「色つき」を認めたことで爆発的に広がり、東北6県では「けずり花」という造花の走りのようなものが広がります。けずり花に限らず墓花全般に色が認められるようになったきっかけとなります。(けずり花参照)
三代目、高橋正市氏になり「生け花」の需要が高まります。嫁入り修行の一環として生け花が必須と呼ばれる世の中となったことで日々の稽古花が売れるようになり、墓花以外の安定した需要でした。同時に生花の流通が始まります。主に山形からの行商でしたが、それでも安定的な稽古花の入手に苦労した事から、自社で農園を経営したり、生産者の開拓を行ったりしていくうち、多く手に入れた花を同業者でシェアしようと市場を開設。この花市場が青果市場の一部門に成長、後に日本初の中央卸売市場花卉(かき)部となります。
四代目、高橋正平氏(私の父)はこの中央卸売市場花卉部開設に当たり花屋小売りの組合、宮城県花卉協同組合理事として組合事業の発展と熟成に努めました。第一次ベビーブームの波に乗り結婚式・葬式事業で一財産稼いだのも彼であり、バブルでブイブイとやって、最も多くの税金を支払わされて高額納税者にまでなったのも彼だったり…(笑)。
でもっての五代目の私です。失われた数十年の不景気世代にして何にも成し得ていない大器晩成型という事で。ただ次を継いでくれるであろう六代目が現在高校一年生(骨折治療中)ということで、私の義務は一つ果たしたぞと…。

150周年記念行事なんかも考えてましたが、コロナでできそうにもありません。記念誌的な何かを出そうかどうかといった程度でしょうか。花屋稼業に東証一部上場がいないように、花屋はいつまでたっても街のお花屋さんなんですね、カッコつけても夫婦で切り盛りっていうのが現実です。これを拡大路線にしてはならぬという家訓もございますし、拡大して永年に継がれている同業者がいないのも事実です。(いたらゴメンナサイ)

これからも細々と永く花屋を続けていけるよう日々の努力は意識いたしますが、何よりもご愛顧頂けるお客様あっての事です。
是非これからも当店には格別のご愛顧を賜りますよう心よりお願い申し上げます。

株式会社 高橋生花舗
五代目 高橋正樹



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