さて、義父と私の視点での思い出話です。妻と出会った時にはすでに義母は亡くなっており長女も近くながら嫁いでいたため、妻と二人暮らしをしておりました。妻との結婚を許していただこうと初めて切り出したとき、まず最初に頭に浮かんだのは、石巻市という仙台市から車で1時間離れた実家に一人残して独居老人という状態はどうなのか…とても心配でした。結婚した時で70歳でした。何度となく仙台で一緒に暮らそうと提案をしたのですが、かたくなに拒み、震災までの9年間独居老人をしておりました。もちろん事ある毎に実家には行って様子は見ておりましたが。義父は婿入りというかたちで妻の実家に来た身ということもあり、また妻と義姉の女二人を育てた事から家督がおらず、自分の代でお家が亡くなるという事も責任の一端にあったと思われます。しかし3.11が起こりました。発災時、石巻市の海の真ん前でひとり生活していた義父の安否はほぼ絶望的であり、救助に向かおうにも当時は寸断された道路や通信から状況を知る術がなく、実際に助けに向かえたのは一週間以上経ってからでした。助け出しに向かった時、家が流されずに残っていたのには奇跡を感じました。しかも2階の窓から元気な姿で「来るのが遅い!」と言われどれだけ安堵した事か。妻に至っては本当に安心したことでしょう。震災が原因ではございましたが、その後は実家ごと仙台に引っ越して来たことで、独居老人状態も解消し、義姉家族も近くに越してきて、妻にすればどれほど助かったことでしょうか。
その後は年齢と共に年齢なりに病気や体の不調やと色々ございましたが、通院や入院も近くで済ますことができておりました。5月20日月曜に救急車で運ばれ、急性の胃癌と診断され、年齢的にも手の施しようが無いという状況から緩和医療に切り替えようと、転院先を探している真っ最中の土曜日早朝に一報を受け、義姉・妻共に義父の最期を看取ることが出来ました。私も仕事を早めに切り上げて病室に向かい、10分経たずの最期でした。
信心深く職人肌でドッシリ構えて座っていた印象のある義父。訛りも伴って会話の半分は理解不能でしたが、それでも話をする機会は少なくなかったと思っております。妻を育ててくれた恩に報いることができたのか、これからは妻に対しての恩返しではなかろうかと考えます。
まだ初七日が過ぎたばかりですが、安らかにお眠りください。
最後に、葬儀に際して色々とご協力を賜りました「ほこだて仏光堂」様、大変ありがとうございました。
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