以前からこのようなネットサービスはあったのですが、Amazonで始めるというのが大ニュースとなります。より利用者が増えてくればそれだけ「寺院離れ」が進むということです。これは色々な問題が山積したまま解決せずにきた、今現在での歪んだ姿なのかも知れないと思うのです。親との同居をせずに核家族化が進むと、当然ながら親の死に対して、子どもたる喪主にすれば「実家」=「遠隔地での葬儀」であり、酷いと自分の菩提寺たる寺がどこなのかすら知らないままとなります。それでも何とかして通夜と葬儀をしようとする家庭はまだ良くて、『すでに老後を過ごして十数年以上経っているから』とか『交友関係一切を知らないから』より深刻になってくると『葬儀代を捻出できないから』などの理由から葬儀を行わず、また死亡広告すらないままとなり、故人の交友関係者となれば今ぐらいの時期ですと喪中はがきにて亡くなっていたことを知らされるならまだ状況は良く、何年も経ってから報せを聞くという事も珍しくなくなったと言います。仕事柄たくさんの通夜・葬儀と向き合うのですが、僧侶の読経のあと大概は説教・説法の挨拶があります(地方的風習や宗教・宗派によって差はあります)が、いかに生前の故人との思い出を語るか、戒名をどのようにして考案したかといった説明があって然るべきところ、世間一般的な時事例から自分の感想だけを述べ並べて格好程度に合掌して帰るような僧侶も多い。これら一連を一番冷静に見ているのは参列者でありその参列した側としては甚だ不愉快でしかないのです。しかし僧侶側としましても故人の生前を良く知らない、檀家とはいえ数年に一度、法事で会うかどうかといった関係性では話しようがないというのも事実です。信じられないのですが、独居老人となった親が亡くなり、喪主となるべき子どもは遠隔地にて葬儀を行える状況になく(それがもうオカシイですが)とにかく火葬して骨壺に収めたのちいきなり墓の永代供養をしている菩提寺に宅配便で骨壺ごと送りつけてくるというのです!「ワレモノ注意」なんて貼ってるんでしょうね。特殊な例ではないのだそうで、仏教界では大問題になっているとか。どう思いますか?
元々、寺には現在で言うところの区役所的な情報が集約される場所でした。随分昔の話です。しかし行政がこれを担うようになったとき、仏教はそれでも永代供養や先祖代々という文化の放棄はないと括って対策を講じなかったのでしょう。講じていたとしてもこの結果です。集金作業にばかり精を出して…と檀家側の文句は良く聞きますが、同時に檀家としても利用頻度は法事と葬儀くらいしかないという状況がより僧侶を好き勝手にさせているとも感じます。こういう世の中になってしまうと、そもそも墓に埋葬する義務がないから樹葬や散骨という特殊だったはずの事例が通常化してきます。僧侶の読経だって義務ではありません。法的義務があるのは死亡届けと火葬のみなのです。それ以外を排除して安く済ませよう、面倒を廃してしまおうというのは私個人の感覚ではイヤです!金銭的な問題はこれは仕方ない部分もあります。少子高齢化では究極的に一組の夫婦が互いの両親の葬儀をすると生涯4回もの葬儀をすることになる。夫婦ですから長生きしたほうがもう一回葬儀を多く経験する。ただでさえ悲しいはずのことが、経済的理由によってより悲しい儀式になってしまうのです。そんな状況でその人の人生の終わりを見送るということができるのでしょうか。
「あの故人は通夜・葬儀を挙げるんだってよ。スゴイねぇ〜」なんて発言が出てくるのも遠い将来ではなくなっていると思うのですが。
私はイヤですね。当たり前に送って欲しい店長でした。
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